三浦千真記 (1871~1934年)

 

 

ご神託で千巻家の養子となる

 

 三浦千真記は、明治4年に山五十川の徳十郎の長男として生まれました。幼名(子どもの時の名前)を勇吉といい、「神童」といわれたほど頭のいい子どもだったそうです。

 三浦千巻家では代々神社の宮司をつとめる山五十川でも名門の家柄であったが、後継ぎがなく、養子をむかえることになりました。千巻家ではなんとか後継ぎにふさわしい人を選ぼうと、三人の候補を決めておくじを神社にあげました。そしてそのおくじに当たったのが勇吉でした。

 勇吉はその時26歳本間家の長男でしたが、自分が神によって選ばれたという気持ちから、千巻家に養子に入り、名前も千真記とあらためて、一生宮司として神社につかえようと決心したのでした。

 

神社の宮司として

 その後、千真記は一生懸命神社に奉公し、広い境内をいつも一人で草一本生えていないほどきれいにしていました。

 その時の山五十川は、五十川を挟んで実俣村と蕨野村に分かれ、いつも、意見が対立し仲が良くありませんでした。そのことを心配した千真記は、村の人達から大変人望があったので、みんな千真記のいうことならよく聞いてくれました。みんなの気持ちをひとつにまとめようと願いを込めて、千巻家の家紋を丸に一に変えたりもしました。

 

郵便局を開く

 

 千真記が村の役人(今の会長)をつとめていた時、村の総会でこう提案しました。

 「この村には郵便局がないので、とても不便です。敷地と建物は私が提供しますから、郵便局をつくって、村の人たちの便利をはかりたいがいかがでしょうか」

 すると、村の人たちは、そんなありがたいことはないと、満場一致で賛成しました。

 そこで、千真記は早速となり村の郵便局に相談し、必要な書類を整えると東京の郵政省にお願いに行くことにしました。今でこそ東京までは日帰りもできるくらい便利になっていますが、その当時は、となりの村まで出掛けるのも一日がかりだったのです。千真記は、何日もかかって東京の郵政省に着くと郵政大臣にお願いしました。

 「わたしは山形県の山戸村から郵便局を開くお願いに来ました」

 それから、何月か経って、ようやく、千真記のところに「山戸村郵便局の開局を許可する」という返事がきました。

 千真記は大変よろこび、早速郵便局を開く準備を始めました。

 仕事を覚えるために、毎日、三瀬峠を越え、三瀬郵便局まで通い、仕事を習いました。

 開局は大正9年10月21日でした。千真記が自分の土地に自分でお金を出して郵便局をつくったのです。その頃としては、大変モダンなつくりでまるい窓などがあり村の人々の目をひきました。

 この建物は、昭和38年まで43年間みんなの郵便局として親しまれました。

 千真記は昭和9年に64歳で亡くなりました。村の人たちは、生前の千真記の功績をたたえ、山戸橋の前に石碑をたてました。